狛江さんには、こんながある。


『狛江さんって、入学式の帰りに、格闘技をやってる大学生五人と喧嘩して、ボコボコにしたらしいよ』

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概ね正しいけど、この噂には、ふたつ間違いがある
ひとつは、狛江さんは入学式の帰りじゃなかった。
それからもうひとつ、相手は五人じゃなくて十人

何故そんな指摘が出来るかといえば、その現場に僕もいたからだ


その喧嘩を、僕は歩道橋の上から目撃した。

入学式の日。
時刻はもう夕方に近くて、僕はいったん家に帰ってからの外出だったし、狛江さんも制服と学校指定のジャージを着ていたけど、おそらく僕と同じだったんじゃないかと思う。

僕は母さんの命令で、手癖の悪い従兄弟が盗んできた自転車を、元々あった場所に戻しに行くところだった。

そこで目撃した――彼女の喧嘩を。

オレンジ色のジャージを着た金髪の少女が、デカい男たちに囲まれていた。
一見しただけでは、何が起こってるのかわからない光景だった。

言葉も動きも、ちょうど途切れた瞬間だったらしい。
そこにいる誰もが――何もかもが静止していた。
もう少しそのままの状態が続いていたら、僕は、そこに幾何学的な美しささえ見出していたかもしれない。

それが、一瞬一変した。

とととと、と一歩、二歩、三歩……
少女の正面に立ってた男が、突然、後ろ歩きを始めていた。
四歩、五歩………そして九歩目で、仰向けに倒れた

「がはぁあっ!歯が!歯が!はがががっがががが……」

赤ちゃんの寝返りみたいに身を捩らせる男の、口元は真っ赤に汚れている。

だ……)

それでもまだ、僕は、自分が何を見ているのか理解出来ないでいた。
でもそれも、次の一瞬までだった。

「「………………っ!!!」」

少女の両側にいた二人が、その場に正座したかと思ったら、鼻を押さえて、そのまま動かなくなった。
彼らの指の間から垂れる――赤。
血の赤。
        
この時点で、ようやく僕も理解した。

男の一人は歯を折られ、二人は鼻を潰されたのだと。
それが、少女の攻撃によるものなのだと。
それからもう一つ。

自分が、何を見ているのか――喧嘩を、見ているのだと。
少女一人対男十人の喧嘩を、自分は見ているのだと。

理解した、次の瞬間、

「逃げろ!」

決心も、その前の葛藤も無く、僕は叫んでいた
叫びながら、同時に自転車から降り、そのまま自転車を、歩道橋の下に向かって放り投げていた

男たちの誰かに当たって、少女が逃げるきっかけが出来れば良かったし、運が良ければ、そのまま乗って逃げて貰っても良かった。

でも彼女は、
「サンキュー!!」
ジャンプして空中で自転車のフレームを掴むと、そのまま着地がてらに、地上に残された男たちに殴りかかっていった――自転車武器に。

「うらぁああああああっ!!はぁあぅあっはあああぁああああっ!!!!!!」

喧嘩は、五分もかからず終わった
男たちにしてみれば、喧嘩していた時間より、その後で泣き声をあげながら地面に蹲ってた時間の方が長かったかもしれない。

全てが終わった後で――
「助かったよ。ありがとうね」
――言いながら、握手を求めてくる女の子。

その手を握りながら、ようやく僕は気付いた。
彼女が、あの『狛江さくら』だということに。

ほんの数時間前――入学式でも、その後の教室でも、彼女は注目を集めまくっていた。
バイオレンスJC』なんて異名や噂の武勇伝が全く、何の手掛かりにもならないくらいの、単純に凄い美少女がそこにいた。

学校で見たあの美少女と、いま握手している目の前の彼女――よく見れば美しさは変わらないのに、まるで別人みたいだった。

あの時、狛江さんは、僕が同じクラスの男子だって気付いていたんだろうか?
「じゃあね」とか「またね」とかいった言葉は無しに、僕らは別れた。

彼女の手は冷たくて、張りがあって、滑らかで、まるでアイスクリームの詰まった水風船みたいで――まあ、そんなよくわからない喩えは、どうでもいい

自転車でその場を離れて、一〇分位経ってまた戻ったら、当然だけど、彼女はもういなかった。
(当然か……)
まだ呻き声をあげてる男たちを避けて、僕は、歩道橋の下に自転車を停めた。
従兄弟が自転車を盗んだのは、この場所からだった。

そして僕は、元々、この場所に自転車を置いて帰るためやってに来たのだ。

(何やってんだ、僕……)

帰り道、僕は思っていた。

(入学式の彼女と、さっき喧嘩してた彼女――明日学校に来るのは、どっちの彼女なんだろう?)